「感動」がすべてだ

「感動」がすべてだ
2005/3/9(水) 午後 0:59

私たちは進化論の中で生きている。一言でいえば「子孫繁栄」の原則に導かれている。
ここで予めお断りしておくが、進化論の対極にある唯心論、とりわけ宗教については、その有義性を認めるものですが、生物の発生・進化についての認識は、人間を含めた生物の歴史を検証すると、進化論の正しさを認めざるを得ない。
ある行為が進化論に合っているか、そうでないかはなかなか判断ができないことが多い。過ぎたあと歴史的検証をしたり、アンケートをとったりして、行為の良し悪しを判断している。しかし往々に政治的だったり恣意的だったりする。
しかし人が良し悪しを即断する場合、例えば「芸術」の評価をする場合は複雑だ。評価の絶対的物指なんてないのだから、良し悪しの判断に困る。
私は、「感動」が判断基準だと主張する。私の創作分野である「詩」でいえば、詩を読んだり聞いたりした後、感動が湧き上がれば、良い詩ということになる。
では、そもそも感動とはいったい何物であろうか。
話がそれるが、私は「二元論」を提唱している。人間の感情などは一つの要素で引き起こされるのではなく、二つの要素(二元要素)が絡まった時に生じるというのだ。例えば「笑い」の感情は「人を馬鹿にする(攻撃欲から起因)」感情と「面白い対象」が重なった時に起こる。「悲しみ」は「希望が失われた」ことと「悲しい状況」が重なった時に人は涙を流し悲しむ。感動は「進化に合致」していて「美意識」とが合致したとき生じる。
芸術は美意識の範疇だから、芸術の良し悪しに感動の基準を当てはめるのはピッタリだ。
よく芸術でアメリカとヨーロッパの判断基準が異なるのを経験する。アメリカ映画がヨーロッパで受けなく、逆にヨーロッパ映画アメリカで受けない、といった現象だ。これはヨーロッパが宗教(カトリックが多い)の影響を広く受けていて、感動よりも「深く考えさせる」ものに評価を与えがちな傾向がかるからだ。もちろんアメリカもプロテスタントカトリックなどが盛んな国だが、宗教と進化論の二面性が強く、芸術家は両者をうまく使い分けをしている。アジア諸国では、宗教の影響は比較的少ないのだが、もう一方の美意識が比較的弱いため芸術は限定的だ。
更に生物的考察を加える。私たち人間も子孫繁栄が絶対命題だ。それは何に象徴されるのであろうか。ズバリ減数分裂と受精にほかならない。人間が精子または卵子を造る過程で、母方の染色体と父方の染色体をつぎはぎする。これは優性原則に誘導される。両者のいいとこ取りをするわけだ。しかし1個の精子卵子ではだめで、量が必要だし、受精環境が必要だ。美意識はこの量と受精環境作りでの大切な要素なのだ。ここである女性は「私たち女性は1個の卵子ですよ」と言われるであろう。甘い! 何故なら生物史から見れば、1個になったのは最近のことで、何億年前はたくさんの卵子を造っていました!
ここで言いたいのは「感動」イコール「子孫繁栄」に繋がっていると言うことだ。
ここで更に細道にそれると。さっき女性は1個の卵子に進化していると述べた。だから当然その進化の影響を受けている筈だ。具体的には男性が精子の量=美意識に大きく影響を受けているのに比べ、女性は優性に重点を置く。もち論受精環境も大事だから美意識も欠かせない要素であるが、相対的には低い。男性が、例外なく美意識にとらわれているのと異なり、女性が優性に重点を置く方が多いのもこのことが影響している。
現代の医学では、女性が受精する場合、体内分泌が多いほど男子出産の率が高いと言われる。女子を望む場合女性は、感情を抑えろと医師は指導する。その観点から、女性で、男子願望が強い方は美意識も強いと言えるであろうか。おっといけない、話が横道にそれてしまった。