文学の衰退

 私は自分でも小説とかエッセイを書くので文学と無縁ではない。しかし一読者の立場になると文学作品はまず買わない。どこの本屋さんでも文学作品は奥の棚に追いやられている。
 私自身、ブログサイトで本の書評も書いているので、本屋の店先で面白い本をあさっている。しかし自分が面白いと感じる本は、書評に取り上げた結果からも、エッセイ風の軽い書本ばかりだ。厚くて字の細かい文学作品はまず読もうという気が起こらない。
 ある意味、文学は映画やテレビドラマのための脚本化している。丁度、人気テレビドラマの脚本を誰も読みたいと思わないと同じ理由で、実質脚本化した文学作品は人の手に触れることが少なくなっている。
 先日、本屋で驚いたのは、文学賞を受賞した作品が、漫画化された本として店頭に並んでいた。また本来の文字本より、はるかに部数として漫画化された同題の本のほうが発行部数が多いと聞く。
 こういった文学離れ、文字離れは既に詩の分野で先行していた。数年前に詩作品は本屋の奥の棚に追いやられていたと思っていたが、最近は本屋のどこにも置かれなくなっている。文学作品も同じ運命をたどるであろう。
 こういった現象の原因は、文字表現技術の限界性の問題である。ある人生ドラマを表現する場合、いろんな表現形態が考えられるが、一般の人は映像などの画像と音声の複合的表現形態(映画やテレビ)にすっかり馴れてしまい、文字のみの表現形態に不満を感じているのだろう。あるい、は文字のみの表現形態の限界性の問題かもしれない。
 では文学、文字表現作品の将来は真っ暗だろうか? 私は詩の世界では明るい見通しを立てている。それはインターネットの登場で、詩の表現に多様性をふくませることが可能になったことによる。特にここ最近、動画配信技術が急速に進歩し、安易な方法で動画配信が個人のレベルで可能になった。そうなると詩は、従来は詩集という形でしか(朗読が存在するが一般的になってない)表現形態を持たなかったものが、インターネットを通じて、文字と背景の画像をつけ、音声ではBGMをつけ朗読で伝えることが可能となった。そうすると詩も歌と同じ多様な伝達要素を持つことになり、今後の詩の復権が望まれることとなった。
 他方、文学作品はその映像化には、映画化と同じことだから、相当な費用がかかるから、暫くは現状の不遇状況は変わらない。冬の時代が続くであろう。
 しかし一方、私は毎日地下鉄で通勤しているが、車内で多くの乗客が読書している光景を目にする。これはどう理解したらいいのだろうか。車内では丁度三分化されている。学生はヘッドホンで音楽を聴いている。サラリーマンは日経新聞を読んでいる。主婦、ОLの方は読書をしているかたが多い。そりゃあ主婦の方が日経を読んだって似合わないだろうし、主婦の方が白いコードのヘッドホンを耳に当てている姿もなかなか想像できない。やはり読書が似合うという、ある意味消去方的考えからだろうか。
 いずれにしても文学作品は暫く冬の時代が続くであろう。しかしそれは文字表現が冬の時代をこうむるだけで、映画、テレビドラマ、アニメーション、または漫画化された「文学作品のストーリー」そのものは、多様な表現方法の中で、隆盛の時代にあるといえる。