裁判官に感謝

戦後60年。日本は戦争を起こさなかったし、他国から攻撃もされなかった。私は幸いにして今のところ、戦争の体験が全くない。この歴史的意味は凄く大きく意味深いものがある。
ではこの日本の平和を守ってきたのは誰だったのだろう。戦後60年目にしてそれがはっきりしてきた。 ずっと政権の座にあった自民党? そんなことはありえない。自民党は一貫して憲法改正を願ってきたし、アジア周辺で起きた戦争にも反対したことはなかった。
では日本のマスコミ?
そう答える人はまずいないであろ。右系新聞社は好戦的であることは万人認めるところだ。左系といわれる新聞社だって所詮株式会社だ。政府から新聞社の「痛いところ」をちくちくされたら、堪らず言い含められよう。
戦前は全ての新聞が戦争肯定というより、政府の広報機関だった。その基本構造は今も変わっていない。
政党はどうだろう。残念ながら「平和」を唱える政党ほどその国民支持率は落ちている。それは平和を唱えると平行して、他の政策実行に努力しなければならないところ、平和の掛け声ばかりで他の政策をおろそかにするから国民の支持が得られない。
では憲法9条が日本を守ったのだろうか。近い!
正確にいうと憲法は曖昧な表現だから破ろうと思えばいつだって破れる。どんな戦争だって、自国を防衛するための先制攻撃だ、と理由づけをすれば、すべての戦争が合憲化される。先のイラク戦争でのアメリカがいい例だ。
日本の平和を守ってきたのは、ずばり裁判所であり裁判官だ。
政府も裁判所だけは恐いから、従来の判例を重視せざるを得ないのだ。
有り難いことに三権分立で裁判所は政府と対等の立場だ。逆にいうと政府と対等の権利を持たないと信頼出来ないということだ。
裁判官には司法権にふさわしい人が選ばれ、またその地位も保証される。
アメリカの陪審員制度は私は反対だ。陪審員である大衆に判断がゆだねられるが、陪審員を誰にするかは恣意的だ。結局権力者が有利になるからだ。
社会生活上の判断は陪審員制度でももいいかも知れないが、宗教、防衛、経済などの社会生活からかけはなれた案件に対して、大衆に判断を任せていいかは問題がある。
選挙制度についても1票の格差是正に対しては、立法府は無力だ。自党の都合のいいことばかり主張してきた。
最高裁裁判官は右寄りだ、と言われるかたがいる。私もそう思う。しかし右系でもいい。戦争に反対し、政府に対して「戦争は駄目だ」と言えるのは裁判官しかいないのだから。